活躍する女性研究者・技術者-14 「鉄鋼メーカー技術者としての22年間-3つの幸運に恵まれて」
尾崎 由紀子 Yukiko Ozaki JFEスチール(株)スチール研究所 鉄粉・磁性材料研究部長 1 はじめに 私は、鉄鋼メーカー入社22年目のごく普通の技術者である。特に大発明をしたわけでもなく、世界に冠たる研究をしたわけでもない。そんな、なんの変哲も ない一技術者が、今回鉄鋼協会誌の紙面をいただくこととなった理由は、私が数少ない古参の「女性技術者」であるためかと思う。女性であり、かつ凡庸な人間 でも、企業で仕事を続けられるという事実が、若い女性技術者の方々、さらには、彼女らの同僚あるいは伴侶として共に道を歩むであろう男性技術者の方々の安 心材料になれば幸いである。本稿では、平凡な一女性技術者の22年間の歩みと、それを支えた3つの幸運についてご紹介したい。 2 技術者としての歩み 私が鉄鋼メーカー(旧川崎製鉄)に就職したのは、1988年。国立大学の大学院理学研究科の博士課程で学位を取得した翌年となる。大学では、水銀合金の 熱力学的物性を研究テーマとしていた。当時、男女共に博士課程修了者の就職は殆どなく、ポスドクとしてアカデミックポストの空席待ちをするか、教員免許を 取得して中学・高校の教員になるといった人が殆どだった。私の場合、指導教官が、学位取得後数年間、旧川崎製鉄で研究員として在籍された経歴があったこ と、その他にも何人かの優秀なOBが複数名同社で活躍されていたこと、さらに、学位取得の前年1986年に男女雇用機会均等法が制定されたこともあって、 女性博士1号として採用された。これらの好条件が就職活動の時期に揃ったことが第1の幸運である。 就職当時は、材料メーカーは新素材ブームの中にあった。そんな時期でもあり、大学でのテーマとは無縁の酸化物超電導体や希土類焼結磁石といった新素材開 発が最初のテーマとなった。後に、大学で磁性を勉強してこなかった自分に、磁性分野を勉強させようという上司の配慮があったと聞いた。複数分野の専門知識 を持つことで技術者として強くなる、という上司の考え方は、後進を育成する立場となった今、非常に参考になっている。 1990年代のバブル崩壊で、新素材を扱った技術者の多くは会社を去り、残った者は本来の鉄鋼分野に配属になった。私はというと、超電導酸化物や希土類 焼結磁石と、粉末を固めて焼く、所謂粉末冶金技術を使う開発に携わっていたため、鉄粉の開発部門に配属となり、現在に至っている。鉄鋼材料の中では存在観 の薄い鉄粉だが、材料としての味わい深さがある。そもそも粉末は、固めて焼いてしまうとバルクとしての性質を示すが、固める以前の粉体は、変幻自在に変形 し、液体様の振る舞いをする。このため、液体論のアナロジーで粉体特性を説明しようという試みもある1)。しかし、粉末は、液体と違って粒子同志の凝集力 が弱く、粒子のサイズに分布があり、さらに重力の影響が大きいため、理論的な扱いは非常に困難な課題であり、現代物理の最前線として取り上げられているほ どで2)、液体と同じく奥深く興味の尽きない対象である。いみじくも、学生時代に液体論で学問の洗礼を受け、入社後も粉末を扱い、一貫して不規則構造と関 わり続けることができたことは、仕事の一貫性という観点から、第2の幸運といって良いだろう。 3 女性ならではの経験 学生時代から今日に至るまで、研究者・技術者として自分が女性であることを意識することは殆どなかった。しかし、就職後結婚・出産・育児を経験する中で は、自分が女性であることに直面せざるを得ず、かなり困難な場面もあった。ここでは、出産・育児で直面した困難と、その時自分を救ってくれた人々について 記すこととする。 私の結婚は、入社翌年である。大学時代の知り合いと結婚し、1991年に長男、1993年に双子の長女・次女を出産した。長男出産では、数週間の産休の 後、2カ月の赤ん坊を保育園に預けて早々に職場復帰をした。それから2年後の双子の出産では、1年間の育児休暇を取得することとした。折しも、育児休業法 が施行された(1992年)直後であったからだ。育児休業中は、慣れない家事と育児で無我夢中である半面、このまま職場復帰できないのではないか、という 不安がしばしば頭をよぎっていた。そんな時、当時の上司が、「休業中でも、お子さんが寝ている間は、論文くらいかけるでしょう。」と言って、論文を書くこ とを進めて下さった。子供が寝静まった夜中、ベビーベッドの横に卓袱台を出して、パソコンに向かう日々が始まった。さらに、論文の添削が思い出深い。当 時、会社の厚生施設に隣接する社宅住まいだったが、双子をベビーカーに乗せて散歩に出かける時間に合わせて、わざわざ上司が厚生施設のロビーまでご足労下 さり、赤ペンでササッとその場で添削して下さった。結局、育児休業中に1本の投稿論文を仕上げることができ、“キャリアの空白”なるものを作らずに済み、 さらには、意識が仕事から遠ざかることなく、無事に職場復帰することができた。今思えば、上司の配慮のお陰である。 次の困難は、子供が思春期を迎えた時期に訪れた。長男が中学生になって間もなく、不登校になり、これがきっかけで強迫神経障害となって家から出られない 状況になってしまった。こうなると学校や教育センターへの相談、病院への通院、不登校の親の会への参加などで、とても仕事どころではない状態となった。も う、夫か自分のどちらかが仕事を辞めて長男と向き合うしかない、と思い詰めたのはこの時期である。当時の上司は、「子供さんのことで用事があれば、すぐに 帰ってあげて下さい。何かあったら、何でも相談するように。」とおっしゃり、外出する私に向かって片手を上げ、「オーライ、安心して行って来い!」と言わ んばかりに明るく見送って下さったので、いじけることもなく、堂々と外出することができた。また、夫婦の進退を相談した実父からは、「仕事は人生そのも の。仕事がない人生程寂しいものはない。苦しいかもしれないが、2人とも辞めてはいけない。」と諭された。この言葉で、夫も私も踏みとどまる決意がつい た。その後、長男は4年かけて通信制高校を卒業し、現在大学入試のための勉強をするまでに回復した。今では、私の最も良い理解者となっている。 職業人としての性別はないが、親となった時点で、女性は母親であり、決して父親にはなれず、性別を意識せざるを得なくなる。私が母親業と職業の両立に苦 しみつつも、職業人であり続けられたのは、育児休業法などの法整備の他に、折々の場面で進むべき方向に私を引っ張り上げ、あるいは後背中を押して下さった 何人かの理解ある上司の存在、加えて家族の存在が大きい。これらの人々との出会いこそが、第3の幸運に他ならない。 4 おわりに 社会において、男女共同参画が叫ばれて久しい。各種の職業現場での女性進出は目覚ましく、製造業においても、女性社員の数は着実に増加している。しか し、数が増えればそれで共同参画というのは短絡的である。女性が参画の場から退場することなく、職業人として男性と同等に仕事を続けるためには、母親と なって以降のライフステージにおける周囲の理解と制度の構築が必要不可欠となる。私のような人間でも、3つの幸運に恵まれ、何とか、仕事を続けることがで きた。今後は、仕事を持つ男女が平等に家事・育児に参加できるような支援制度を整備し、さらには制度の理解を深める活動を推進することによって、職業人と して志を持つ男女全てに、先に述べた3つの幸運が与えられるような社会を望みたい。私は非力な存在に過ぎないが、次世代の技術者が、本当の意味での男女対 等に参画社会を作るために何がしかのお手伝いをすることが、私の次の役割かもしれないと、22年間を振り返る今考えている。 参考文献 1)例えば,早川尚男:数理解析研究所講究録 1305,(2003), 51. 2)長島順清,早川尚男,那須野悟,岡本宏,大槻義彦 編:現代物理の最前線1,共立出版(2000 22 年前に撮影されたライラックの写真 (2010年8月20日受付) 「ふぇらむvol.16 No.1掲載」 |